▼企業の歴史は忘れられていく
牛丼チェーンの「吉野家」を知らない人はいないと思います。この吉野家、1980年(昭和55年) に一度倒産しています。その後、見事なV字回復を成し遂げました。
吉野家復活に大きく貢献したものの一つが、1983年(昭和58年)に放送開始されたアニメ『キン肉マン』でした。アニメの中で、主人公が吉野家の牛丼を美味そうに食う姿が何度も映され、子どもたちがお店に殺到したのです。
キン肉マンといえば吉野家、吉野家といえばキン肉マン、という図式が一定の年齢層の人の間にはできあがっていたそうです。
ところが、その後、作者のゆでたまご氏と吉野家の間に、確執が生まれてしまいました。極めつけは、ゆでたまご氏の元を訪れた吉野家の社員が、キン肉マンと吉野家の繋がりを知らなかったという事実です。社員の発言を聞いたゆでたまご氏は、ショックを隠し切れなかったといいます。
しかしながら、会社の歴史が、社員が変わると新入社員に継承されず、いつの間にか忘れ去られてしまうことは普通にあることなのです。
▼カリスマ経営者の力だけではモノは売れない
時計業界もそれは同じです。今でこそロレックスのデイトナや、オーデマピゲのロイヤルオークは大人気ですが、ほんの30年ほど前までは売れない時代が長く続いていました。
ところが、昨今、時計メーカーの人や東京の百貨店の店員にこうした話をしても「そうなんですか?」と言われることが多い。売れなかった時代を知らないのです。
1980年代頃までは、機械式時計なんて過去のものと考える人も多く、問屋は何とか仕入れてくれと全国の時計屋を頼み込んで回っていました。当時を知る人に話を聞くと、門前払いにされることも少なくなかったそうです。しかし、それでも一部の時計店では、機械式に強い思いをもつ店主のもと、地道に魅力を伝えて顧客に販売してきました。
時計雑誌では、ウブロを再生したジャン・クロード・ビバーさんや、自身の名前を冠したブランドを立ち上げて急成長させたリシャール・ミルさんのようなカリスマ的な経営者がクローズアップされることがあります。しかし、そういったカリスマのアイディアだけで、商品が爆発的に売れるようになることは決してありません。
メーカー側と消費者を繋ぐ存在、すなわち小売店があってこそ、ブランドの魅力が伝わるようになるのです。ブランドのコンセプトを理解して顧客にすすめる小売店の努力があって、初めて商品が売れるのです。ロレックスやオーデマピゲが現在の地位を築いているのは、そうした小売店の努力があってのことだと思います。
▼売り上げが少なければ契約を切られる
日本の特に地方では、現在のようなインターネットなどの情報網がなかった時代においては、時計店の店員がインフルエンサーとなって、ブランドの知名度拡大に果たした役割はすごく大きいと思います。
ところが、現在はそういった地方の小売店にとっては冬の時代になっています。過去にどんなにメーカーに貢献し、売れなかった時代に必死に努力して販売した小売店であっても、売り上げ実績が少なくなってしまうと、メーカー側からは無情にも契約を切られてしまうのです。
昨今、時計メーカーはブランド化を推し進めています。通販はNG、店内はブランドが指定する什器を入れて改装し、さらに仕入れ本数にもノルマを設けるようになりました。こうなると、人口が少ない地方の小売店はまったく太刀打ちできません。高級腕時計を扱える店は、資本力のある都市部の店に絞られつつあります。
某時計店の店主が言っていました。
「自分はまだ恵まれている。なぜならば、自分が昔このブランドをいち早く仕入れて売り始めたことを知っている社員が、まだメーカー側にいるからだ。しかし、そういった事情を知らない人が多数派になってくれば、うちなんかは真っ先に切られるだろうね」
▼歪な関係になってしまった、メーカーと小売店
メーカー・小売店・顧客。この三者が良好な関係を築いてこそ、ブランドは発展すると思います。しかし現在の時計業界は、明らかにメーカー側の力が強すぎて、小売店はメーカーに従うだけの関係になっています。こういった力関係は果たして正常なのでしょうか。
確かにロレックスなどは黙っていても売れていくような状況ですので、メーカー側が強気に出てしまうのは当然だと思います。
しかし、黙っていても売れるようになったのは、これまで無数の小売店が「ロレックスはいいですよ」と勧めてきた努力の結晶だと思います。
そういった背景を、メーカー側の人間は忘れていないでしょうか。昨今のロレックスの歴史しか知らない人は、多くの先人の努力によって今の地位があることを、知らない人も少なくないと思います。
また、某ブランドや某ブランドで圧倒的な売り上げ実績をあげている東京の大手時計店だって、現在の売り上げの一部は、某ブランドが売れなかった時代も必死に売り続け、今は正規扱いができなくなった中小の小売店の恩恵によって成り立っているのです。くれぐれも、このことを忘れてはいけないと思います。

RICHARD MILLE プロフェッショナル・コンセプター 1億4000万円の腕時計を作るという必然 (幻冬舎単行本)
- 作者: 川上康介
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2015/02/06
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る