頭のネジが手巻きで止まっている かがり美少女の中の人ブログ

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秋田大学に農学部が存在しないという謎

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秋田県で有名な農作物はコメだけ

秋田県に対して県外の人が抱くイメージは、なまはげ、竿灯、きりたんぽ、あきたこまちなどがあります。そして農業が盛んであるというイメージが共有されているはずです。

ところが、秋田県で盛んな農業は稲作(コメ)だけです。農業が盛んと言うより、コメづくりが盛んと言うのが正確です。コメの農業産出額は新潟、北海道に次いで3位につけています。しかし、農業産出額全体で見れば1,792億円で東北6県で最低であり、うち約56%をコメに依存している状態です。

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↑ 都道府県別の農業産出額。 ※平成29年 農業産出額及び生産農業所得(都道府県別)より。農林水産省/平成30年12月25日公表

 

都道府県別農業産出額の実額では、全国20位。47都道府県のうち真ん中からちょっと上くらいであり、農業が盛んとも盛んでないとも言いにくい、微妙な順位です。秋田県は農地面積が広いわりに大して金を稼げていないわけで、実に効率の悪い農業をやっているなあと思います。

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↑ それぞれの都道府県の農業産出額の上位である農作物。 ※平成29年 農業産出額及び生産農業所得(都道府県別)より。農林水産省/平成30年12月25日公表

 

秋田県の代表的な農作物はコメなのですが、2位以下を知っていますか? 僕は今、知りました。豚、鶏卵、肉用牛、りんごと続きます。上の表を見ると、1位のコメと2位の豚の産出額に凄まじい開きがあり、いかに一芸頼みの農業をやっていることがわかります。コメの価格が暴落すると壊滅的なダメージを受けてしまう、問題ありまくりの構造になっているのです。

県民は、秋田のコメは日本一美味いと思っている人が意外といます。ところが、最近は米の品種改良競争が激しさを増しています。これまでコメどころという認知度が低かった九州や四国、さらには20年ほど前まではまずいコメの産地と揶揄されていた北海道がおいしいコメの産地になっています。

秋田県の農業は、いつダメになってもおかしくない状況なのです。

 

▼農業を本当に重視してきたのか?

それにしても、秋田県の農業政策がここまで遅れているのはなぜなのでしょうか。そもそも秋田県は農業に関するノウハウが、他県と比べると低いのだと思います。

もちろん農業は行われていました。前にこのブログに書きましたが、僕のじいちゃんは戦時中でもコメをたらふく食えるほど、食いものがあったのです。アニメ映画「火垂るの墓」を見て「こんな貧乏くさい生活は俺はしていない!」と言い切れるほど、食べ物には困っていなかったようです。

 

しかし、あくまでも自給自足のためのものであり、他県のように農業を外貨獲得のための産業として意識していなかったのです。

その証拠がわかるのが県内の大学です。県内の最高学府、秋田大学には未だに農学部がありません秋田県金足農業高校や大曲農業高校など、戦前に設立されていた農業高校はありますが、長らく、大学で農学を学ぶなら県外(岩手大学山形大学など)に行かねばなりませんでした。

昭和24年(1949)の秋田大学の設立から実に50年後、平成11年(1999)に秋田県立大学が開学して、ようやく県内で学べる環境ができたほど、農業に手を付けるのが遅かったのです。

 

▼鉱山が秋田県の富を潤していた

僕は、秋田県農業ではなく鉱業がメインの県だったため、歴史的に農業をそれほど重視してこなかったと思っています。秋田県に富をもたらしていたのは小坂鉱山花岡鉱山尾去沢鉱山阿仁鉱山院内銀山などから採掘される鉱物であり、八橋油田から採れる国内最多の産油量を誇った石油でした。

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↑ 小坂鉱山事務所は明治38年(1905)の竣工。当時、東京でもこれほど大規模なオフィスビルは珍しかった。小坂は鉱山によって、多くの労働者が集い、巨万の富が生まれた近代都市だった。 撮影/山内貴範

 

要は、秋田県地下資源が豊富であったため、外貨獲得のために農業を活性化させたりブランド化する必要はなかったといえるのです。

秋田大学には鉱山学部という学部がありました。現在は工学資源学部と改められていますが、付属の鉱業博物館は現在でも日本最高峰の鉱物の資料館です。秋田大学の設立母体の一つ、秋田鉱山専門学校明治43年(1910)の開学であり、いかに秋田県が鉱山を重視していたのかがわかると思います。

秋田大学が設立されたのは昭和24年(1949)です。この時代はまだ国内の鉱山の調子が良かった時代です。県内の鉱山周辺の集落は超近代都市であり、豊かな生活が謳歌されていました。県の発展のためには鉱山こそが第一であり、農業は別に二の次でも問題ないと考えられていたようです。

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↑ 小坂は金が余りまくっている状態だったため、住民や労働者のためにこんな豪華な芝居小屋までできた。「康楽館」は厚生施設として明治43年(1910)に竣工した、明治時代を代表する芝居小屋の一つ。 撮影/山内貴範

 

▼農業県・秋田のイメージはいつできた?

では、秋田県が農業の県というイメージはいつできたのでしょうか。ここからは僕の推測なのですが、高度成長期に国策として行われた八郎潟干拓事業が大きく影響しているのではないかと思います。

コメを筆頭に食糧不足を解消するために、八郎潟という全国2位の広さの湖を干拓して大潟村が生まれました。入植者は昭和40年代に県外から募りました。そのために、秋田県=農業のイメージが絶対に必要だったのです。干拓事業は当時の国家プロジェクトであり、メディアで大々的に報道されています。県を、国を挙げたPRは、秋田県のイメージを国民に刷り込むには十分な効果がありました。

昭和32年(1957)にはじまった干拓事業は、昭和52年(1977)に完成しました。ちなみに、終わったころは減反政策が行われるほどコメが余りまくっていたわけですが、とにかくモデル農村としての大潟村が開村したのです。一方で、昭和40年代には県内の鉱業の衰退がはじまり、県は新しい産業の道を探らねばならなくなっていました。

八郎潟干拓と、鉱業の衰退が同時期に起こったことが、秋田県のイメージが鉱業から農業に転換する、大きな分かれ道だったと思います。

そして、昭和59年(1984)に秋田県の奨励品種となったコメあきたこまちが有名になり、平成9年(1997)に開業したJR東日本秋田新幹線「こまち」の列車名にも採用されました。こうして、農業県のイメージが形成され、浸透していったのです。

いずれせによ、こうした経緯があるので、秋田県の農業政策は歴史が浅く、素人なのです。それが尾を引きずって現在に至っています。県内のJA、農業票に依存している議員、そして農業生産に対して寄与していない兼業農家は、TPP反対とかセコいことを言っていないで、農業の仕組みを抜本的に改めないと、秋田県の衰退は加速度的に進んでいくと思います。

 

町おこしin羽後町―美少女イラストを使ってやってみた

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