↑ 隈研吾の設計で完成予定の「新国立競技場」 ※独立行政法人日本スポーツ振興センターホームページ https://www.jpnsport.go.jp/newstadium/ より引用
▼建築家の代名詞になった隈研吾
最近、とにかく隈研吾の設計した建築の話題を聞かない日がありません。東京オリンピックの舞台の「新国立競技場」はもちろん、来年に暫定開業する「高輪ゲートウェイ駅」も隈研吾だといいます。「日本橋三越本店」の改修もそうだし、渋谷駅周辺の再開発にもかかわっています。東京の新名所はことごとく隈が話題をさらっています。
KADOKAWAが手掛ける「ところざわサクラタウン」や、モンベルの辰野勇がキレて話題になっている奈良公園のホテルも隈研吾。「千葉市庁舎」や「富岡市庁舎」もそうだし、取材で沖縄の石垣島に行ったら「石垣市庁舎」も隈だという。いやはや。どんだけ仕事しているの!
隈研吾は時代の寵児になった感じがあります。隈のイメージと言えば「負ける建築」だったけれど、建築家としては勝った。大勝利だ。なるほど、廉価な素材を用い、特に木や石を使った空間は今の時代に凄く合っています。自治体や企業から設計依頼が殺到する理由もわかる気がします。
さて、それまで建築家といえばコンクリート打ち放しの建築で知られる安藤忠雄でしたが、最近はメディアに出なくなったし、名前も聞かなくなりました。「表参道ヒルズ」のような、話題になる大きなプロジェクトもなくなりました。なぜなのでしょうか。
▼あの騒動で評価を失墜させた安藤忠雄
隈と安藤の明暗を分けたのは「新国立競技場」のコンペです。
安藤の株を下げた最大の原因は、一言で言えば審査委員長を務めた「新国立競技場」のコンペの、記者会見での対応。あれが良くありませんでした。
安藤はデザインを選ぶ側であり、設計者ではありません。設計者はザハ・ハディドという外国人であり、一般的には安藤の方が知名度が上でした。よって、その後のデザインと建築費高騰を巡る混乱では、いつしか安藤が批判の矢面に立たされてしまうことになったのです。
↑ ザハ・ハディドの「新国立競技場」案 ※独立行政法人日本スポーツ振興センターホームページ https://www.jpnsport.go.jp/newstadium/Portals/0/NNSJ/first.html より引用
僕は、新国立競技場はどんなに金をかけてでも構わないから、当初のザハの案で施工されてほしかったと今でも思っています。よって当時から安藤派です。記者会見では安藤がしっかりと説明してくれると思い、見守っていました。ところが、会見を見終わって愕然としました。
安藤は説明をしっかりやらずに逃げてばかりでした。糞ダサいジジイにしか見えませんでした。致命的に良くなかったと思います。あの記者会見が響き、株価がストップ安になった感じで、30,000円だった株価が1,000円になったくらいに評価が失墜したと思います。
▼安藤は説明責任を果たしてほしかった
正直、この国立競技場の問題は責任の所在があいまいです。建築費高騰は、安藤だけの問題ではありません。さらに言えば森喜朗のせいでもありません。わかりやすい敵をつくり、一人に責任を擦り付けるのはイジメであり、酷というものです。
それでも、安藤はメディアの前に出た以上、説明責任を果たすべきだったと思います。というのも、安藤はメディアで有名になった建築家だからです。NHKのテレビ番組などで建築の“夢”を語る姿がたびたび放映され、それによって安藤のイメージを快く思っていた人も多いはずです。
そういう人があの映像を見たら、「あれ、安藤さんどうしちゃったの?」と思ってしまうでしょう。
新国立競技場はキールアーチという2本のアーチの施工が難しく、それが建築費高騰を招いたと批判されました。しかし、施工が難しい建築を敢えて選んだのは、安藤の強い想いがあってのことでしょう。
もし実現していれば安藤の最高傑作になったであろう建築は「京都駅」でしたが、施工が難しいということで審査の過程で却下され、現在の原広司の案で完成しました。原のデザインも相当にレベルが高いけれど、安藤案の良さはずば抜けていました。
▼メディアで有名になった安藤はメディアで作家生命を絶たれた
そうした「連戦連敗」の経験をしてきた安藤だからこそ選べたザハ案だったのに、そうした“想い”や“夢”が語られることはついにありませんでした。
のらりくらりと説明から逃げている、最悪な記者会見になってしまいました。佐村河内守や野々村竜太郎と比べたらマシではあったけれど・・・
ちなみに、僕はその騒動の後に安藤を取材しようという企画があり、編集者が交渉をしたのですが、「新国立競技場の件はノーコメントで」ということで実現しませんでした。守秘義務など、いろいろな事情はあるのでしょう。でも、取材にほとんどコメントをしないようでは、逃げ回っている印象を受けてしまいます。
そして、あれだけ安藤を持ち上げまくったメディアが、まったく彼の見方をしてくれなかったのも印象的でした。かくして、メディアによって有名になった建築家はメディアによって葬り去られました。
コンペで決まった案をひっくり返すという日本の建築史において大きな汚点になった出来事であったとともに、メディアの手の平返しのわかりやすい例を見せてくれた出来事だったといえるでしょう。