かがり美少女の中の人ブログ

かがり美少女イラストコンテスト主催者の山内が、好き勝手なことを書いてストレス発散するためのクソブログです。最低最悪なクソな内容多し。「自己責任」で読んでね( ^ω^ )。商品を買ってくれると僕にお金が入るから、買ってね( ^ω^ )。たまに(いや、かなりの頻度で)嫌な感じのことを書きますが、ゆるしてニャン☆

京都はいつから、伝統や景観についてうるさく言うようになったのか

f:id:kagariugo:20190327001949p:plain

▼日本一厳しい景観政策

京都は日本屈指の観光都市の一つです。そして、日本屈指の厳しい景観政策で知られています。

マクドナルドやコンビニの看板が“茶色”かったり、“地味な色”になっている、いわゆる京都仕様のデザインは知っている人も多いと思います。

そして、平成19年(2007)に打ち出された新景観政策は、市街地の建築の高さやデザインに厳しい規制を加えました。新景観政策に関するリーフレットを見ると、屋外広告物(看板)はもちろん、建築のデザインから高さに至るまで、あらゆる要素を規制しているのがわかります。

ひとえにこれも、歴史的な景観を守るためなのだそうです。お手本になっているのが京町家です。京都の市街地のマンションを見てみると、瓦屋根風の庇を付けたり、屋根を載せたりと、京都っぽさを出すために必死になっているのがわかります。

 

▼洋風建築が異常に多い京都

ただ、その一方で、僕は京都を訪れて変だなあと思ったのは、洋風建築がとてつもなく多いことでした。例えば三条通には、赤レンガの日本銀行京都支店中京郵便局など、明治時代に建てられた派手な洋風建築がたくさん立っているのです。

f:id:kagariugo:20190326232227j:plain

↑ 日本銀行京都支店。明治39年(1906)、重要文化財、現:京都文化博物館別館。赤レンガのド派手な建築。これは景観破壊じゃないの?

 

日本銀行京都支店の設計は明治時代の建築界の大御所で、赤レンガの東京駅で知られる辰野金吾と、教え子の長野宇平治です。赤レンガに白い花崗岩でアクセントをつける手法は辰野が好んだデザインで、当時のイギリスの流行を取り入れた洋風建築であり、京都っぽさが微塵もありません。京都の伝統的な日本建築の文脈からは、明らかに外れている建築です。

こういう建築は景観破壊ではないのか?

重要文化財だからいいのか?

変じゃん!!!!!! と思うわけです。

以前に、京都の景観について取材したときに、某文化人某政治家にそのへんの疑問をやんわりとぶつけたのですが、適当にごまかされた挙句、険悪な雰囲気になったのでやめました。まあ、僕は京都にどんな建築が建とうがどうでもいいですし、ぶっちゃけマギアレコードのアニメ化の続報の方が重要なのですが、腹が立ったので調べてみました。

すると、京都が景観についてうるさく言いだした歴史は戦後になってからであり、かなり歴史が浅いことがわかりました。そして、それまでには景観に対する意識は低く、むしろ京都のイメージにそぐわない洋風建築をバンバン建てまくっていたことがわかったのです。

しばし“古都”として一緒に語られる奈良と比較してみると、まったく異なる都市計画が進められてきたことがわかります。一言でいえば、奈良は伝統を重んじ京都は最新の文化を取り入れることで、発展してきた都市といえるのです。

 

※以下、建築の写真はネットから拾ったもので仮に構成していますが、後日、自分の写真に差し替えますので、無断使用を一旦許してね。 

 

▼奈良は一貫して“和風”を重視してきた

京都と奈良の景観への意識の違いは、日本の建築のデザインが大きく変わった、明治時代の建築を例に挙げると、わかりやすいと思います。

明治時代初頭、国が主導する建築は基本的に洋風で建てられていました。その理念に基づいて、奈良公園に片山東熊の設計で明治27年1894)に帝国奈良博物館はネオ・バロック式の洋風建築として完成しました。ところが、これを見た人々から「奈良公園にこんな洋風建築はそぐわない」と非難が巻き起こったのです。

そのため、これに続く奈良公園周辺の公共建築は、軒並み和風で統一されるようになりました。初代・奈良県庁舎明治28年(1895))を筆頭に、奈良県物産陳列所明治35年(1902))奈良県立図書館明治41年(1908))などはすべて和風の屋根を載せた建築です。

明治42年(1909)に奈良の迎賓館として建てられた奈良ホテルも、和風を基調とした建物です。設計は辰野金吾ですが、彼の作風からは想像できないデザインです。前に紹介した日本銀行京都支店をはじめ、京都にある辰野の建築は軒並み洋風であることを考えると、奈良の人々の強いこだわりが反映されていると思います。

もちろん、奈良監獄など、洋風で建設された建築もあります。しかし、基本的に奈良の人々は平城京があった奈良時代に誇りをもち、和風を重んじていたようです。

興福寺の東金堂五重塔室町時代の再建にもかかわらず古風ですし、龍王寺本堂のように江戸時代の建築なのに明らかに奈良時代を意識したデザインがなされた建築も残っています。京都よりはるかに前から、伝統に対する意識が強かったと言っていいでしょう。

f:id:kagariugo:20190326190436j:plain

↑ 初代・奈良県庁舎。のちに日本銀行京都支店を辰野とともに設計する長野宇平治が単独で設計したもの。

f:id:kagariugo:20190326190623j:plain

↑ 奈良県立図書館。

f:id:kagariugo:20190326190236j:plain

↑ 奈良ホテル辰野金吾の作品では数少ない和風の建築。

 

▼京都の公官庁は“洋風”を重視した

一方で、京都は奈良と異なり、洋風建築にこだわってきました。

考えれば当たり前です。京都は平城京遷都以来、明治時代まで1000年以上も日本の都であり続けました。流行の最先端であるという気概が京都人にはあったため、洋風建築を建てるのは自然な流れでした。

景観論争になった帝国奈良博物館とほぼ同時期の明治28年1895)、京都に片山東熊の設計で帝国京都博物館が完成しています。東山を借景にし、道路を挟んで三十三間堂が立つような場所に建てられたルネサンス式の主張の強い洋風建築でしたが、奈良のような大論争は巻き起こりませんでした。

当初計画されていた3階建てから、途中で平屋に変更されましたが、これは景観を意識して高さを抑えたのではありません。数年前に起こった濃尾地震でレンガ建築が地震に弱いとわかり、耐震性を考慮した結果、平屋になったのです。

このように、明治時代の京都には“洋風”で、“日本の伝統を考慮しない”建築が次々に完成しています。明治21年1888)には南禅寺の境内にレンガの橋を通すという“景観破壊”の“暴挙”をやらかした琵琶湖疎水の水路閣が、明治37年(1904)にはルネサンス式の洋風建築で京都府庁が竣工します。

平成の時代に景観論争が起こった京都駅も初代から洋風でしたし、大正2年(1913)に竣工した2代目もまた洋風です。この時代には和風の駅舎が出現しているのですが、京都の玄関口にふさわしい駅舎として選ばれたのは洋風でした。ちなみに2代目は昭和25年(1950)に焼失し、2年後に再建された3代目はモダニズム建築。まったく京都っぽいデザインではありません。

昭和2年(1927)に完成した京都市庁舎は、細部に和風っぽいモチーフが見られますが、海外の建築の意匠を折衷させたもので、全体的な構成は洋風建築のスタイルです。設計者の武田五一は和風建築にも秀でた建築家であり、「社寺っぽい屋根を載せた建築」をオーダーできたはずなのですが。同じく武田が多くの建築を設計した京都大学にも、和風で造られた建築はほぼありません。

商業建築も和風より洋風が好まれました。鴨川に面して立つ東華菜館(大正15年(1926))はスペイン風のデザインであり、今では絶対に建築許可が下りないであろう建築です。

明治~戦前の京都の中心的な建築で、和風の意匠で作られたのは明治28年1895)の平安神宮くらいだと思います。平安神宮平安遷都1100年のイベントのパビリオンを、後に神社に改めたものです。イベントのコンセプト的にも、これを洋風で造ったらバカでしょう。和風にする以外の選択肢が考えられなかった建築なのです。

f:id:kagariugo:20190326191232j:plain

↑ 明治時代の京都を代表する景観破壊、琵琶湖疎水の水路閣。京都屈指の大寺院である南禅寺の境内に赤レンガ造の水路を通す。これを今の京都で計画したら、大炎上でしょう。

f:id:kagariugo:20190326134401j:plain

↑ 京都府庁舎。見事なルネサンス式の庁舎。ぜんぜん和風ではありません。

f:id:kagariugo:20190326134415j:plain

↑ 京都市庁舎。これは2代目ですが、初代もやっぱり洋風でした。

f:id:kagariugo:20190326191940j:plain

↑ 東華菜館。大阪心斎橋の大丸など、商業建築を数多く手掛けたヴォーリズの設計。

 

▼戦後になってから起こった景観論争

こうした経緯を見ると、京都で景観云々の議論は、戦前までにはほとんど起きていなかったと言っていいでしょう。

経済界、仏教界、そして住民と、あらゆる人々を巻き込む大きな論争になったのは、高度成長期に計画された京都タワーが最初です。京都タワーはそもそも、京都中央郵便局の移転に伴う跡地利用として、京都の観光案内や土産販売を兼ねた施設を造る計画が発端です。

当初は、タワーを建てる計画はなかったそうです。ところが、当時はご当地タワーが大ブームになっていたため、観光の目玉にすべくノリで計画されました。おそらく、戦前まで洋風建築が問題なかったわけですから、関係者は特に問題になんかならないっしょ、というお気楽な気持ちだったに違いありません。

ところが、フランス出身でノートルダム女子大学の講師だったオーシュコルヌという人が、京都市長の高山義三に「京都にこんなタワーを建てていいのか!」とケチをつけます。これが導火線となり、大炎上します。京都を愛するインテリジェントな文化人がメディアで煽りまくり、一大景観論争が巻き起こったのでした。

僕の感想は「外国人が余計なこと言うんじゃねえ!!!!!!」です。というか、外国人に文句言われてから運動を始める文化人って、いつの時代も変わらずにいるのですね。実に情けないものです。

で、京都タワーは建ってしまいました。その後、昭和47年(1972)に施工された京都市景観条例は、明らかにこの論争を意識したものでした。こうして、最新のデザインの建築を次々に生み出してきた京都の伝統は、ここに断絶しました。

ちなみに、僕は東海道新幹線に乗って京都に出張に行くと、車窓の京都タワーを見て、ああ、京都に着いたなと感じます。もはやみん慣れたため、今更、文句を言う奴はいないでしょう。

 

▼景観論争のその後

京都タワーの後、京都では景観論争が何度も起こっています。

高さが問題になった平成6年(1994)の都ホテル、そして高さだけでなくデザインにもケチがついた平成9年(1997)の京都駅などがその代表的なものです。

都ホテルが完成したときは、キンキラキンの仏堂が建つ寺の生臭坊主が、寺の入口に“ホテル宿泊者の入山お断り”という看板を立て、拝観を拒否したりもしました。

くっだらねー!!!!!!

いずれも、戦前の京都であれば問題にすらならなかった内容で、景観論争が起こっているのがわかります。ちなみに、京都の伝統なるものを本気で考えるとしたら、その時代に合った最先端の建築を建てることです。それこそが京都が京都であり続けてきたゆえんなのですから。

 

▼ぶれぶれの都市計画の将来が不安だ

まあ、京都はこれからは景観を守ると決めて、厳しい姿勢を貫くと宣言し、ずっとその方針でやっていくのであれば、別にいいと思います。

ところが、昨今の京都の景観政策は、ぶれにぶれています。なんと、今後は京都の人口の減少が見込まれるために、景観条例を見直そうというのです。京都市の地価は高く、若い世代が住むにはハードルが高いため、近隣市町村や大阪に転出する例が多いといいます。高層マンションの建設が認められる可能性もありそうです。なんじゃそりゃ。
う~~~~~~~~~ん。場当たり的だなあ。日本の都市計画のいい加減さがわかります。明確な都市のビジョンがないまま政策を進めているのがわかります。

景観を守ると決めたら、徹底的に守って欲しい。20年、50年と先の京都を見据えて、街づくりをする強い意志がないから、景観云々の議論なんてやめるべきだと思います。何度も言いますが、京都は高度成長期までは、景観に縛られずに自由に発展してきたのですから。

 

京都―古都の近代と景観保存 日本の美術 474

京都―古都の近代と景観保存 日本の美術 474